坂本龍馬から、天下の人物として名前が挙げられた二人のうちの一人が、西郷隆盛で、もう一人が、この写真の人物、三岡八郎、後の由利公正である。
三岡は、文政12年(1829年)、越前福井藩の藩士三岡義知の嫡男として越前国足羽郡福井城下に生まれた。24歳で家督を相続し、福井を訪れた熊本出身の横井小楠より財政学を学んだ。
三岡は、文政12年(1829年)、越前福井藩の藩士三岡義知の嫡男として越前国足羽郡福井城下に生まれた。24歳で家督を相続し、福井を訪れた熊本出身の横井小楠より財政学を学んだ。
後に、藩主松平慶永より財政再建の命が三岡に下された。三岡は、実態調査に5年をかけた。まず、藩内外の実態を把握する事が先決だと考えたのである。下関では物産取引の実情をつぶさに調査した。
その結果判明したことは、領民一人当たりの年収が0,5石しかない事と領民たちが「いくら身を粉にして働いても、殆んど藩に税として持って行かれる」と言う気持ちになっている事だった。年収は、当時の日本の年収の半分しかなかったし、領民たちは、藩に対する不信感から労働意欲を失くしていた。
「これじゃあ、ダメだ。」と悟った三岡は、
「藩の財政再建は、藩が富む事ではなく、領民が富むことだ。」
と考えるようになった。この「民富論」は、彼の財政学の師である横井小楠や先輩の橋本佐内が、福井藩に持ち込んだ考え方である。彼は、民富論を実践するための具体策を次のように整理した。
1.藩内の特産物の生産を高める。
2.流通は大阪などの商人に頼むのではなく、藩内の商売人たちに依頼する。
3.生産と販売に関しては、藩は口出しせず、長崎に外国との窓口である藩の蔵屋敷を建てるにとどめる。
4.切手を起債し、これを運用資金として生産者と流通者に貸し付ける。
実際に、彼は、長崎に藩の蔵屋敷を建て、オランダ商館と生糸や醬油などの特産物の販売の特約を結び、初年度25万ドル、翌年45万ドル、翌々年には60万ドルを売り上げた。三岡は、利益を公平に分配し、起債も償還し、貸付け金を現金化したので、初めは、「うまいこと言って、どうせまた増税する気なんだろう」と起債に猜疑心を抱いていた領民たちの三岡に対する信用度は一気に上がった。
「三岡さんは、ウソをつかないし、やることに温もりがある。」
という評判が立った。これは、三岡が、「民が富む事が、藩が富む事だ。」と信じ、ワラジ履きで藩内を隅から隅まで歩き回り、領民たちを
「自力で富め。藩は、そちたちに力添えをするだけだ。ウソはつかん。」
と説得して回り、その言葉通りの事を実行した結果だった。
どこぞの国の政府に聞かせてやりたい話である。