Take it easy !

 初めまして、Raymond Yanです。人生、もっと気楽に生きていきたいという思いから、このブログを始めました。YouTubeで公開している武術の動画も、こちらでは解説付きで、公開したいと思います。  Old fashioned & hybrid martial arts(https://www.youtube.com/results?search_query=raymond+yan)

カテゴリ: 禅と武道

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 "I seek not to know all the answers
but to understand the questions."
     


 冒頭の文句は、70年代に日本でも放映されていた「燃えよカンフー」のオープニングで入るデービッド・キャラダインによるナレーションです。孔子の言葉から取ったって言う話もあるので、調べてみましたが、ハッキリ分かりませんでした。

 随分、禅味溢れる言葉なので、禅宗か老荘の言葉から採用したのかなと思ってました。もしかしたら、そうかも知れないし、孔子の言葉なのかも知れません。


 どちらにしても、これは、深い言葉です。何か、問題があって、その答えを直接探そうとすると、論理の迷路に入り込んで出られなくなるから、先ず、自分の中に存在するその疑問自体をよく見詰めてみよってことです。


 自然農法の福岡正信先生が、

私は、事物発展のきっかけ(要素)となった事態(契機)そのものの根源自体が、なぜこの世にあったかが最も根本的な問題であり、その点が追及されることによって、弁証法の根本が崩れ去るものと考えているのである。」(太字強調 Raymond Yan)

と書いてらっしゃるのも、こういう観点からご主張なさってたんだと思います。


 ボタンの掛け違いと同じですね。最初の一歩を間違えると、変な道に迷い込んでしまいます。しかも、自分が本来向かうべきだった目的地から、遥か遠くまで足を運ぶ羽目に陥るんですね。

 これが、頭で考えて物事を解決しようとする西洋哲学の最大の欠点です。東洋哲学では、肚で直観します

オイゲン・ヘリゲル
阿波研造

 ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルの名著「弓と禅」には、師匠阿波研造との世界観の違いから来る鋭い対立が描かれています。

阿波   「自分の意志で矢を放つな」

ヘリゲル 「自分の意志で矢を放たずに、どうやって矢を射れますか?」

 東洋哲学と西洋哲学の世界観の違いが、このお二人の文化的衝突に如実に現れています。阿波先生は、ヘリゲルの事を理解しようと、西洋哲学も随分お勉強になったみたいですが、結局、

「こんな下らない事を勉強してるから、分からないんだ。」 

と仰って西洋哲学を学ぶことをお止めになったそうです。頭だけを使って、物事を理解しようとする西洋流の考えでは、東洋哲学の神髄は掴めないって事でしょう。



 それに、西洋哲学者たちがやっているような激しい頭脳労働は、上丹田(頭脳)に負担をかけ過ぎる事になるので、よくありません。書斎に籠って本やネット上の論文ばかり読んで上丹田に負担をかけ過ぎると、気が上に上がったまま下に下りなくなり、下丹田(肚)が発達しにくくなります。下丹田(肚)が充分に発達しないと、直観力が働きにくくなります。有体に言えば、

「下手の考え休むに似たり。」

の状態になるって事です。この言葉の意味を広辞苑で調べると、

「よい知恵もないのにいくら考えても、時間がたつばかりで何の効果もない」(太字強調 Raymond)

と書いてあります。そう、豊富な知識と中途半端な論理能力があっても、一休さんみたいな「智恵」がないんですよ、西洋の哲学者たちには。これが、最大の問題です。

Socrates


 ソクラテスは、例外です。あの人は、明らかに覚者だったと思います。







 
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 昔ある所に、剣を究めた剣士がいた。彼の振るう三尺の剣に敵う者は、天下広しと言えども、どこにもいなかった。

 そんな彼も、晩年は、神武不殺の境地、即ち、「 神のような武徳を身につけ、一切の殺生をしなくなる」境地に到達した。

 それ以降、彼は、自分の身辺に剣を置くことを止めた。


 ある日、彼の弟子たちが、師匠を試してみようと話し合い、師匠が地面にゴザを敷いて、その上に座り寛いでいる時に、弟子の一人が、剣で後ろから師匠に斬りかかった。

 すると師匠は、サッと身をひるがえして、ゴザを素早く引っ張った。弟子は、足元をすくわれ、したたかに頭と背中を地面に打ち付けて悶絶した。
 

 どんな危機的状況に対しても、臨機応変に対応できる。明鏡止水の境地とは、まさにこのことである。
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 今、香港でブルース・リーが、再び注目されています。ブルース・リーがと言うより、彼の武道哲学がですが。

 

「心を空にせよ。水のように無形になれ。水をコップに入れれば、水はそのコップになる。ボトルに入れれば、そのボトルになる。急須に入れれば、その急須になる。水は流れ、水はクラッシュする。水になれ、友よ。」
 

 中国武術の根底には、老荘思想が流れています。彼の武道哲学も、そこから来ています。香港のデモ隊は、今、この"Be water."(「水になれ」)の精神で動いているそうです。固定的な戦術に拘らず、流動的かつ臨機応変に動いているという事でしょうね。
 

 もう一つ、ブルースが映画「燃えよドラゴン」の中で語っていた彼の有名な武道哲学があります。それは、
 

 "Don't think! Feel!"(「考えるな。感じるんだ。」)
 

というものです。基本稽古や型の応用などを稽古するときは、大いに頭を使ってもいいんですが、実際に稽古仲間と約束事なしで組む時や実戦では、考えていると相手に後れを取ってしまいます。


 「考える」そして「動く」という2ステップの動きになってしまうからです。「来た!」「打つ」じゃなくて、「来た!」の「来(き)」で、動くのです。いや、これは、正確じゃないですね。「来た」の「来(き)」で、或いはその気配が起きた瞬間に、意識的に動こうとせずに、自然な体の動きに身を任せるのです。簡単に言うと、「無」で動くということですかね。


 これが、中国武術だけでなく、武道全般に存在する禅的な或いは老荘的な哲学なのです。ビジネスや実人生にも通じる実践的な哲学ですね。
 



 香港でデモをしている人たちにも、これは当てはまります。戦略や戦術を立てる時には、大いに頭を使って考えるべきです。しかし、実際に現場でデモをする時、特に警官隊とやり合わねばならない時には、頭で考えずに、直観に従って動くべきです。状況は、刻一刻と変化するからです。
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 広州の法性寺で、和尚が、大勢の坊主たちを前にして、涅槃経の講話をしていた。その時、寺の境内の旗がヒラヒラと翻った。

 それを見た一人の坊主は、「あれは、風の仕業だ。」と言った。すると別の坊主は、「いや、あれは、旗が動いたんだ。」と言い返した。

 すると、それを聞いていた一人の男が、こう言った。「動いたのは、風でもなければ、旗でもない。君たちの心が、動いたのだ。

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 釈迦は、幼いころから武術を学んでいた言われている。恐らく、北派のカラリパヤット(「武術」という意味)をやっていたのだろう。


 ある所に、人を切り殺しては、その指を切り取って、首飾りにしている殺人鬼がいた。釈迦は、それ以上無益な殺生をさせまいとして、その殺人鬼の前に立ちはだかった。


 殺人鬼は、釈迦を切り殺そうと手にしていた刀を振った。だが、刀は当たらない。釈迦が、殺人鬼の動きを見切って太刀筋をよけたからだ。


 何度も、刀を振って釈迦を切ろうとするが、刀は虚しく宙を切るだけである。イライラした殺人鬼は、釈迦に向かって「動くな!」と叫んだ。釈迦は、落ち着き払って、こう答えた。


 「私は、動いていない。動いているのは、お前の方だ。
 
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