but to understand the questions."
随分、禅味溢れる言葉なので、禅宗か老荘の言葉から採用したのかなと思ってました。もしかしたら、そうかも知れないし、孔子の言葉なのかも知れません。
どちらにしても、これは、深い言葉です。何か、問題があって、その答えを直接探そうとすると、論理の迷路に入り込んで出られなくなるから、先ず、自分の中に存在するその疑問自体をよく見詰めてみよってことです。
自然農法の福岡正信先生が、
「私は、事物発展のきっかけ(要素)となった事態(契機)そのものの根源自体が、なぜこの世にあったかが最も根本的な問題であり、その点が追及されることによって、弁証法の根本が崩れ去るものと考えているのである。」(太字強調 Raymond Yan)
と書いてらっしゃるのも、こういう観点からご主張なさってたんだと思います。
ボタンの掛け違いと同じですね。最初の一歩を間違えると、変な道に迷い込んでしまいます。しかも、自分が本来向かうべきだった目的地から、遥か遠くまで足を運ぶ羽目に陥るんですね。
これが、頭で考えて物事を解決しようとする西洋哲学の最大の欠点です。東洋哲学では、肚で直観します。
阿波 「自分の意志で矢を放つな」
ヘリゲル 「自分の意志で矢を放たずに、どうやって矢を射れますか?」
東洋哲学と西洋哲学の世界観の違いが、このお二人の文化的衝突に如実に現れています。阿波先生は、ヘリゲルの事を理解しようと、西洋哲学も随分お勉強になったみたいですが、結局、
「こんな下らない事を勉強してるから、分からないんだ。」
と仰って西洋哲学を学ぶことをお止めになったそうです。頭だけを使って、物事を理解しようとする西洋流の考えでは、東洋哲学の神髄は掴めないって事でしょう。
それに、西洋哲学者たちがやっているような激しい頭脳労働は、上丹田(頭脳)に負担をかけ過ぎる事になるので、よくありません。書斎に籠って本やネット上の論文ばかり読んで上丹田に負担をかけ過ぎると、気が上に上がったまま下に下りなくなり、下丹田(肚)が発達しにくくなります。下丹田(肚)が充分に発達しないと、直観力が働きにくくなります。有体に言えば、
「下手の考え休むに似たり。」
の状態になるって事です。この言葉の意味を広辞苑で調べると、
「よい知恵もないのにいくら考えても、時間がたつばかりで何の効果もない」(太字強調 Raymond)
と書いてあります。そう、豊富な知識と中途半端な論理能力があっても、一休さんみたいな「智恵」がないんですよ、西洋の哲学者たちには。これが、最大の問題です。
ソクラテスは、例外です。あの人は、明らかに覚者だったと思います。